政秀の懇願によって一通り終えていた読経は、また頭から読み直されるという異例の事態となった。
なかなか焼香が行われない事に、本堂に集まった人々は一様に眉をひそめたが、その理由を問う者は誰もいなかった。
わざわざ訊かずとも、喪主の席に腰を据える者がいないのを見れば、おおよその察しが付くからだ。
しかし、あまりにも経が長い為、参列者の中には 瘦面botox
「信長の殿はかような席においても御遅刻か。さすが尾張の大うつけ、やる事が大胆じゃのう」
「遅刻ならばまだ良いが、この分では、殿が来られぬまま葬儀が終わってしまうのではないか?」
「それは面白い、喪主のいない葬儀か」
「あの殿ならばやり兼ねぬ」
と、好き勝手に囁き合う者たちもいた。
『 殿、どうか早ようお越し下さいませ。 次期当主であるあなた様のご威光を、皆に知らしめる為にも。亡き父上様の為にも 』
濃姫は信秀の位牌に向けて端然と合掌しながらも、心の中では、信長が一秒でも早くこの場にやって来ることを願っていた。
今度は途中で逃げ出したりせず、信秀を最後まで、しっかりと見送ってあげてほしかったのである。
そんな時──
本堂の入口の方から「…殿ッ!」「信長様のお越しじゃ!」という、人々の声が響いて来た。
信長の到着に、濃姫も政秀も思わず顔を綻ばせた。
『 殿、やはり来て下されたのですね 』
濃姫は心の中で呟くなり、喜びに満ちたその面差しを素早く後方へと向けた。
が、本堂の入口へとやって来た信長の姿を認めた瞬間、濃姫も政秀も愕然となった。
信長は、当然城に用意されていたであろう薄墨色直垂の喪服に着替えることもなく、
いつもの山賊のような格好のまま、腰に巻いた縄帯の周りに大刀や火打袋を幾つも下げた状態で、平然とやって来ていたのである
その、場を弁えぬ姿に、一同は驚きを通り越して唖然となった。
僧侶たちによる規則正しい読経も、信長の訪れによって一気に乱れ、不協和音を奏で始めていた。
「…と…殿…何という…」
政秀は喉の奥から絞り出すような声で呟くなり、本堂の端を通り、すかさず信長の側へ駆け寄った。
「これは…、いったい何の真似でございまする!何故に左様な身形のままで参られたのです!?
本日は誰あろう、父君たる大殿のご葬儀にござい──」
「爺よ」
信長の冷たく鋭い眼差しが、政秀の狼狽え顔を射抜いた。
「今、この場に、親父の死を心から悲しんでおる人間は何人おろうのう」
「は ?」
「儂には見えるぞ、爺。親父が死んだのをこれ幸いとばかりに、尾張一円を我が物にせんと企む、皆の笑い顔がな」
「……」
「果たしてこの中の誰が敵で、誰が味方か──。よう吟味してみる必要がありそうじゃな」
「吟味?」
「無論それは、爺、そなたも例外ではないぞ」
不敵な笑みを浮かべる信長に、政秀は小首を傾げた。
「…いったい、何のお話をなされているのです」
「何、ただの独り言よ」
信長と政秀が入口に佇んだまま、なかなか次の行動に移ろとしないのを見て、
秀貞は痺れを切らしたように立ち上がり、足早に彼らのもとへ向かった。
「これはまた、随分とゆっくりな御参上でございますな、殿」
「佐渡…」
「なれど、お越し下さいまして安堵致しました。喪主である殿がこの場におわさねば、我々も織田家重臣としての面目が立ちませぬ故」
本心を押し隠すようにして告げる秀貞の言葉を、信長はしれっとした顔で聞いている。